観音菩薩の慈悲に触れながら、千年以上の時を越えて巡る「西国三十三所巡礼」。
その中でも、藤井寺にある葛井寺は特別な存在です。
実際に千本以上の手を持つ国宝・千手観音立像や、御朱印にまつわる閻魔大王の伝説、巡礼を再興した花山法皇の物語……。
古代から続く信仰と文化の道を歩くたびに、きっと心に新しい発見が生まれます。
今回は、日本最古の巡礼といわれる西国三十三所と、その第五番札所・葛井寺の魅力を、歴史とエピソードを交えてご紹介します。
目次
西国巡礼第五番札所は葛井寺──国宝・千手観音に出会う

藤井寺にある「葛井寺(ふじいでら)」は、西国三十三所の第五番札所です。
このお寺を特別な存在にしているのが、本尊の千手千眼観世音菩薩立像。
実際に千本以上の手が彫られた観音像は、全国でもこの葛井寺だけに伝わる非常に貴重なものです。
その手の数はなんと1,041本。
ひとつひとつの手が慈悲の心をあらわし、どこから眺めても荘厳な存在感に圧倒されます。
この仏像は国宝に指定されていて、日本仏教美術の最高峰のひとつと言われます。
ご参拝されるのに特におすすめのタイミングは、毎月18日。
この日にだけ本堂の御扉が開かれ、普段は拝観できない千手観音さまの全身を間近に拝むことができます。
この御開帳を目当てに、全国から信仰と美術を愛する人々が集まってくるのです。
西国三十三所巡礼を始める方も、歴史や文化に興味がある方も、まずは藤井寺の葛井寺を訪れてみてください。
仏像の優美な姿と観音菩薩の深い慈悲に触れる時間は、きっと忘れられない思い出になります。
御朱印をいただくときは、千の手に込められた祈りを感じながら「南無観世音菩薩」と心で唱えてみてはいかがでしょうか。
西国三十三所巡礼とは
「仏教を信仰する巡礼」として有名なのがお遍路さんと呼ばれる四国八十八ヶ所巡りが有名だと思いますが
実は「西国三十三所」は四国お遍路よりも起源が古くて日本最古の巡礼の道といわれているとても歴史の古い由緒ある巡礼なのです。
その巡礼の道の総距離は約1100キロ
和歌山、大阪、兵庫、京都、奈良、滋賀、岐阜と2府5県にまたがりますのでバスツアーなどを利用せずに単独で行くとなると中々に大変ではあります。
ツアーなどを利用していくと約12日(12回)程度で満願することが出来るのでお手軽ですね。
四国お遍路と西国巡礼の違い
四国お遍路さんも西国三十三所と何が違うの?とよくお客様に質問されます。
確かにどちらも同じように「仏教を信仰する巡礼」なので解り難いかと思うのですが・・・
- 四国お遍路はお大師様(空海・弘法大師)を追慕する巡礼
- 西国三十三所は観音菩薩を信仰する巡礼
これが大きな違いです。
「四国お遍路」は、お大師様が開いた真言宗の世界観に順じて巡礼しますが
西国三十三所には宗派的な世界観は無く、あくまでも観音菩薩の慈悲を求め観音菩薩がまつられている霊場を廻る巡礼になります。
ですので基本的な装束も四国お遍路後の人は背中に「南無大師遍照金剛」の装束を着用します。

「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」は、四国お遍路の巡礼者がよく唱える言葉で、弘法大師(空海)への帰依を表す定型句です。
「南無」は「帰依します」「敬い信じます」という意味です。
「大師」は真言宗を開いた弘法大師・空海のこと。
「遍照金剛」は空海が灌頂(かんじょう)で授かった密教の法号(仏教における霊名)で「宇宙の隅々まで光を照らす金剛(ダイヤモンドのように不壊の智慧を持つ存在)」という意味です。「南無大師遍照金剛」とは『私はすべてを照らし護る弘法大師に心から帰依し、その教えを信じます』という深い信仰の表明の言葉です。
西国三十三所の巡礼は宗派的な世界観は無く、観音菩薩の慈悲を求め観音菩薩がまつられている霊場を廻る巡礼するので「南無観世音菩薩」の文字の装束を着用する事が多いですね。

ちなみに、どちらも現代では「ちょっと恥ずかしい…」と感じる方も多いので、僕ならTシャツで巡礼すると思います(バチ当たりかもしれませんが)。
西国三十三所の起源
西国三十三所の開祖となる人物が二人います。
- 西国三十三所の開祖と言われる徳道上人
- 中興の祖と言われる花山法王
この二名が西国三十三所の開祖と言う事になっていますが、開祖とされる徳道上人や、中興の祖・花山法王には三十三か所すべてを巡礼した記録が残っていません。
西国三十三所を巡礼をした最古の記録は11世紀末頃(1093年 – 1094年頃)に天台座主となった行尊だと言われており、実際に西国三十三所を世に広めたのは天台宗の行尊だと言う事になります。
閻魔大王から授かった三十三の宝印が御朱印のルーツ
八世紀の初頭の頃の話し・・・・
大和の長谷寺の開山徳道上人は病にかかって仮死状態になり閻魔大王と出会います。
閻魔大王は世の中に悩み苦しむ人々が溢れている事を嘆いていました。
そのため徳道に「三十三の観音霊場を開き観音菩薩の慈悲の心に触れる巡礼を世に広めよ」と使命を与え三十三の宝印を授けました。
これが現在の御朱印の始まりです。
徳道上人は頑張ったんだけどね・・・挫折した!
現世に戻った徳道上人は、閻魔大王より選ばれた三十三の観音霊場の礎を築きましたが、当時の人々には受け入れられず三十三の宝印を中山寺の石櫃に納められ約270年間も陽の目を見る事は無かったと言う事です。
折角、徳道さんを大抜擢したのに成果が残せずに、閻魔大王もさぞかしガッカリして徳道上人があの世に舞い戻って来た時には愚痴の一つも言ったかも知れませんね。
ちなみに、この時の石櫃は今も中山寺(兵庫県宝塚市)境内にあります。
花山法皇によって再興されるが・・・
途絶えていた観音巡礼は約270年後に花山法皇によって再興されます。
花山法皇は、先帝円融天皇より帝位を譲られ第65代花山天皇となられますが、当時権勢を誇った藤原氏の権力闘争に巻き込まれわずか2年で皇位を退き19歳の若さで法皇となられました。
19歳で退位した花山法王は京の都から熊野の地に移り、那智の滝の上流にある「二の滝」で1000日の籠山修行を行いました。
そんなある日のこと、花山法王の前に熊野大権現が現れ「観音浄土の33か所を再興しなさい」というお告げを受けます。
お告げを受けた花山法王は「33の宝印」が納められている中山寺で印を掘り起こし2人の上人を連れて西国再興の旅に出ます。
「西国」は憧れの巡礼路
中世日本は首都であり文化の中心であった京都が大人気で人々の憧れの地であったわけです。
その憧れの地に三十三所のうち三分の一の札所寺院が集中していることから、憧れの巡礼路としてその人気は全国に広がりました。
やがて遠方により巡礼が困難な人々のために、各地に写し霊場が創設されます。
- 坂東三十三所
- 秩父三十四所
西国三十三所の「西国」は、当時憧れであった最古の巡礼路が坂東(関東)から見て西にあったことからきています。
そして西国三十三所とあわせて日本百観音霊場に数えられる坂東三十三所と秩父三十四所を合わせて百観音巡礼として親しまれています。
満願すると極楽浄土への通行手形となる
西国三十三か所をすべて参拝することを「満願」または「結願(けちがん)」といいます。
“願いが達成して祈願を終えられた”という意味です。
閻魔大王の約束の証である宝印を三十三所のすべての寺院で集めるとその御朱印帳は「極楽浄土へのパスポートになる」として信仰されています。「閻魔さまへの通行手形」として亡くなった際に棺桶に入れるという風習もありますが、宗派によってはNGな場合もあるので要注意です。
いずれにしても御朱印を集めるだけでも楽しいですし。
何より御朱印は札所本尊の分身ですので大切にお持っていたいですね。
菩薩は三十三の姿に変身し人々を救うと書かれています。
いかなる困難に出会っても、常に観音菩薩は慈悲の心で見守っておられます。
どうぞ観音菩薩の導きを信じ「南無観世音菩薩」とお唱えください。

